
『ほぼ日』の楽しみ方がわかってきた。やっとよ、やっと。
「やっと」がいくらあっても足りない!
ぼくの知り合いには「ほぼ日、まいあさ読んで1日がはじまるよ」って人が多いんです。ほぼ日手帳を愛用してる人もたくさん。ちなみにぼくは1986年うまれでMOTHER 2世代。
だから、触れないわけにはいかないなって気持ち半分、なにがそんなにいいんやろって疑問半分で、今まで何回かほぼ日アプリをダウンロードして、読んでみたりしたんですけど、その度にしっくり来なくてアプリ消してたんです。たぶん7回ぐらい。
だから、自分は世間と感覚ずれてんのかなって思ったり、調子がよくないときなんかは「みんな雰囲気でいいって言ってんじゃないの」って思うことも(ほんとにごめんなさい)。
そんなことを思い出しつつ、先週またアプリをダウンロードしたんです。
「また」と思ったキッカケは、去年末、毎年恒例の自分がその1年に描いた漫画と文章の振り返って、びっくりしたことがあったから。
自分でもなんでこんな書き方してるんやろうって思うぐらい、なんというか、必要な人にとってはタメになるかもしれないけど、おもしろくはなかったんです。
去年は生きづらさを感じる人が、ラクに生きられる気づきになるようなメッセージを伝えたい!って表現したいことが明確になって、それでもって楽しく描けて充実感はあったし、いいもの作れてるかもって思ってただけに、充実してた自分が恥ずかしくなりました。
(全部消したい!って思ったんですけど、そんな作品でも「救われました」って送ってくれる人もいたから、これは自分にとって必要だった通過点と考えることにしました)
それは僕が1番望んでない形で、僕が読む側であれば、たぶんもう読まない。
じゃあ自分がまた読みたいと思うものって、どんな形やろう。
やっぱりそれは、みんながいいって言ってるものの中にあるんじゃないかなと思って、また、ほぼ日のアプリをたぶん8回目のダウンロードをして、読んでみたんです。
そしたら。
あれ、言葉使いとかリズムとか間とか、こんなに気持ちよかったっけ。
書いたその人、話すその人がそこにいるかのような居心地のよさ。
あ、この感覚って、ラジオの空気感に似てる。
パーソナリティとリスナーが1つのテーブルを囲んで話してるかのような距離感、まさにぼくが憧れて、理想としてる形。
そう思うと、ぼくの去年は塾講師みたいな1年だったのかも。
なんでいままで気づけなかったのか。逆になんで気づけたんやろう。
歳によるものか。タイミングなのか。わかろうとしにいく気持ちかな。
みんながいいって言うものに対して、素直に受け入れたくない、こじれた個性かな。すごい人、すごいもの見ると、自分がちっさく見えるじゃないですか。
到底かないっこなくて、実際小さいけど、それを認めないことでなんとかギリギリ自分を保ってたりもして、あとあと気づくみたいな。
そういえば、学生時代から人気アーティストの歌は全部くだらないと思ってて、だから学校で誰も聴いてないようなインディーズバンドばっかり聴いてたのを思い出した。誰も知らない良さに気づける俺、かっこいいでしょ、みたいな。
ちなみにミスチルのかっこよさに気づいたのも、ほんと最近です。
話は戻って、ほぼ日さんの作る空気感。
いま、自分が書けるようになりたいのはこれなのよ。
まいあさ読んで1日はじめるのにちょうどいい長さだし。
ここから先は、最近あったこと、考えてること、気づいたこととか。
吉本ユータヌキが『ここだけのはなし』をする場所です。よかったら覗いてみてくださいね。

先週、本だしまーす!ってお知らせしてから、ほんと毎日そわそわそわそわ。
なんか気になっちゃって、Twitterで『気にしすぎな人クラブ』で検索してみたり。1時間ごとにAmazonランキング確認したり。まさに気にしすぎ。
あ、でも新着ランキングでは最高3位までいくことができました!
めちゃくちゃ嬉しかったです。

でも、こんなそわそわが1ヶ月も続くと、発売する頃にはクタクタになってるんじゃないかなと思って、必死に控えるようにして、ようやく落ち着いてきました(気にはなるけども)。
そんなわけで、今週からはまた気持ちを制作モードに切り替えてやっていこうと思っています。
今年は『自分の心が動いた瞬間とか好きなものを、おすそ分けする』を意識して、作品を作ろうと思っています。
そう思ったのは、去年末、事務所コルクの代表である佐渡島さんと話したときに、佐渡島さんが言ってくれた